会社概要歴史・考え方・目標(どすこいの大切にしていること)

 

どすこいの歴史

1993年5月
アウトドアのフリースクール「どんぐりの家」開所

ゴリ鈴木の私塾としてスタート。
best interest of the child(目の前にいるその子が、いま一番興味を持っていること※どすこい訳)の保障を目指す。
子どもだけの自律した遊び集団の形成が人の創造性を担保するという考え方はここから。
障害の有無・程度に関係なく、2歳半~18歳の子どもたちと一緒に年間100日キャンプ生活という支援スタイルもここで生まれた。

1999年4月
森林ボランティア団体「SaveForestClub」発足

森を元気に!人も元気に!が合言葉。
奈良・大阪・和歌山・三重にフィールド多数。
森だけでなく田畑でも無農薬有機栽培を手掛ける。
2007年には会員1,000名を超える。

2013年8月
一般社団法人どすこい設立

SaveForestClubの複数のメンバーから「障害のある我が子が、いつまでも大好きな森に通えるようにしてほしい」、「この子が森で仕事ができて、森で暮らせる仕組みを作ってほしい」という希望があり、森と街を結び、森に雇用を生む取り組みを開始し、一般社団法人どすこいを設立。

2015年3月
放課後等デイサービス「どすこい昭和町部屋」を開所

2016年4月
多機能型児童発達支援事業所「どすこい信貴山部屋」を開所

2017年4月
放課後等デイサービス「どすこい西田辺部屋」を開所

2020年9月
フィールドを信貴山から王寺町「陽楽の森」に移転

これに伴い、「どすこい信貴山部屋」は「どすこい王寺町部屋」に名称変更

2021年8月
一般社団法人どすこいから株式会社どすこいに法人格変更

同時に吉川ロジスティクスグループに迎えられグループのサステナブル事業を担う。

どすこいの考え方

Point

支援する側・される側の垣根を超える

対人援助を仕事にしている私たちは、うっかりすると「私は常に援助する側であって、援助される側ではない」という錯覚に陥ります。 自分は決して、目の前にいる「援助される人」の立場にはならないと思い込み、援助される側の人を知らず知らずのうちに見下ろしてしまうのです。

カナダでは「障害」をunabled body(「出来ない」身体)、「健常」をtemporary abled body(今はたまたま「出来る」身体)と表します。 そこにあるのは、「人は障害者と健常者に分けられるのではない」、「障害と健常という状態は一人の人のなかで起きる地続きの事柄」という考え方です。
この考え方に基けば、援助する側と援助される側にはいつでも立場の逆転が起きるのです。常に上から手を差し延べるのが自分である と思っていても、私たちはある日を境に誰かに手を差し延べてもらわなければ生きていけない状態になるのです。
また、全介助が必要な高齢者や障害者のお世話をしながら、私たちは自分自身が抱えていた悩みや苦しみ、鬱々とした思いや不安から解き放たれることがあります。 機能的な面では援助する人と援助される人の関係性は何ら変わらないのですが、気持ちの面では私たちの方が援助されている人に抱きしめられ、 背中をさすってもらい、赦してもらい、そのままでいいんだよと認めてもらっている。ということが頻繁に起きるのです。

「出来る」abledと「出来ない」unabledの入れ替わりは、一生という長い時間軸のなかだけでなく、日々の暮らしのなかでも刻々と、何度でも起きています。

援助する私は、いつも援助される私。
お世話する私は、いつでもお世話される私。
そのことを忘れないでいたいのです。

 

Point

誰も排除されない、誰もがいていい居場所を創る

「自然の摂理は弱肉強食。だから強い者が弱い者を蹂躙し、食い尽くすのは当たり前のことだ」という人がいますが、それは大きな間違いです。
自然の摂理は「食物連鎖」と「適者生存」。どんなに身体が大きくて力が強い生き物でも死んでしまえば最終的には微生物に食い尽くされて土に還っていきます(食物連鎖)。 また、どんなに強い生物も生き延びられないと思われるような過酷な環境でも、その環境に適合して生き続ける小さく弱い生物がいます(適者生存)。
「社会の役に立たないものは安楽死させてやるのが、社会にとって有益だし、本人にとっても幸せだ」という考え方に基づいてナチス・ドイツは障害者を虐殺しました(「T-4作戦」)。 これに共感した植松死刑囚は2016年7月26日「津久井やまゆり園」で19人の入居者を刺殺し、入居者・職員26人に重軽傷を負わせました。
LGBTの方々への差別について語られるなかで「(子孫を残せないという意味で)生産性がない人たちに税金を投入するのは社会的損失」と国会でいい放った日本の国会議員がいます。
これら「社会の役に立つかどうか、生産性が高いか低いかで生きる価値が決まる」という考え方に出会うたびに思うのは 「この方たちは自分が永遠に強者であると思っているのか?」、「自分がいつか誰かのお世話になることを知らないのか?」、「いつか死ぬということを知らないのか?」ということです。

世界的規模でサステナブル(持続可能性)が声高に叫ばれるなか、「誰も排除されないコミュニティ」、「誰でもいていい居場所」こそが求められています。
特定の誰かにとって都合のよい人だけが集められた場所ではなく、強いも弱いも関係なく、社会の役に立つとか立たないとかでもなく、 ましてや生産性の高低でもなく、一緒にそこに集い、一緒に過ごすことが出来る、そのようなコミュニティ、そのような居場所を、私たちは創りつづけたいのです。
「人はただ、生まれてきて生きて、いまそこに在る、ただそれだけで尊い」という思いに立って。

 

Point

死んでも持って行けるもの Spiritual Healthを探求する

1947年に採択されたWHO(世界保健機関)憲章では「健康」を次の3つの項目がすべて満たされた状態あるとされています。(※1)
■Physical Health (身体的健康)
■Mental Health (精神的健康)
■Social Health (社会的健康)

1999年、第52回WHO総会では健康の定義に次の2つの項目を加えて改訂することが審議されましたが、採択には至らず継続審議とされました。(※2)
■Spiritual Health(霊的健康)
■Dynamic Health(動的健康)


これら5つの項目はどれも大切な事柄ですが、どすこいでは特に四番目のSpiritual Healthがサステナブルな社会を構築するためのキーワードと考えています。
Spiritualとは「霊的な」「魂の」といった意味ですが、「霊的に健康」だとか「魂が元気」だとか言われてもピンとこないのではないでしょうか?
「身体的に健康」、「心が元気」、「社会的に困窮していなし」というのであれば、簡単にイメージできるのですが。

ユング派の分析家である河合隼雄さんが「魂とは【死んでも持って行けるもの】」と書いておられます。
では、【死んでも持って行けるもの】とは何でしょうか?
家、土地、車、お金、肩書、地位、家族、友人、家柄、学歴、職歴、事業、会社…どれも、死んでしまえば持って行けないでしょう。生産性が高いとか、社会の役に立ってるとかも、きっと持って行けない。取り敢えず履歴書に書けることや、目に見えるものは、どれも持って行けそうにないのです。
では一体、私たちは死んだあと何を持って行けるのでしょうか?

実はこの問いの答えを河合隼雄さん自身は書いておられません。ここから先は私たち一人一人に答えを探すことを求めておられます。きっと、魂の健康とは、一人一人が「死んでも持って行けるものは何だろうか?」と考えることそのものにあるのだと思います。

どすこいでも、サステナブルなコミュニティを創造するために、SpiritualHealth 「死んでも持って行けるもの」 についてこれからも思いを巡らせていきます。(※3)

※1 公益社団法人 日本WHO協会(https://japan-who.or.jp/about/who-what/identification-health/)ダウンロード
※2 WHO憲章における「健康」の定義の改正案のその後について(https://www.mhlw.go.jp/www1/houdou/1110/h1026-1_6.html)ダウンロード
※3 Spiritual という概念が、カルト宗教、霊感商法、洗脳商法など反社会的活動に悪用されないよう注意を払う必要があります。

 

Point

多様性×多様性がサステナブルを生み出す

20年前のことですが、イジメがきっかけで学校に行かなくなった14歳男子が、放棄された桧林の間伐・枝打ちを手伝うために 森にやってきました。そのとき彼は「ここはとても落ち着く」、「森は自分に似てる」、「ここに毎日通ってもいいか?」と いいました。詳しく訊くと「日本の社会で、不要なモノ、無駄なモノ、と思われている点で似ている」というのです。 確かに、学校で無用とされた彼と同様、森もまた、高度成長期の日本社会にとっては生産性が乏しい、価値のない資産として 扱われてきました。

日本は「同調圧力」が高い社会です。個性的であれ、といいながら出る杭は打たれます。目立つことを禁じます。 「みんな」の「普通」に気を遣うことが求められます。自分で感じ、自分で考え、自分で決定し、自分で行動する、という 自律した個人を嫌います。同調圧力が高い、ということは違いを認めないということです。 違いを認めない、ということは、ダイバーシティ(多様性)を許容しないということです。

どすこいが大切にしたいのはこれとは真逆の、ダイバーシティ(多様性)が尊重される価値観です。
上の中学生の指摘の通り、森と子どもたちは似ています。効率や生産性を求める社会にとっては無用の存在である、という点だけでなく、多様性という点でとてもよく似ています。
森は多様な生命が互いを必要とし、互いに補いあい、絶妙なバランスで暮らしています。大きくても小さくても、力が強くても弱くても、動くものも動かないものも、誰が欠けても森というサステナブル(持続可能)なコミュニティは維持できない。
一方、発達障害をニューロダイバーシティ(脳神経の多様性)としてとらえることが注目されていますが、そもそも人の脳は一人一人とても個性的で多様性に富んでいます。ニューロダイバーシティという考え方のお陰で、発達障害という個性を持つ人だけでなく、あらゆる人にとってこの社会は暮らしやすくなる。

どすこいでは、多様性の塊である森は、多様性の受容を必要とする発達障害の人たちに限らずすべての人とって落ち着いて過ごせる場所であると信じて、多様性×多様性の出会いの機会をこれからもどんどん増やしていきます。

 

Point

閉じない・孤立しない・繋がり続ける

教育でも福祉でも、農業や林業でも、サステナブルという社会的な取り組みでも、高い専門性を求められる現場は、 いつも閉鎖性・独善性と闘わなくてはなりません。そうしないと、私たちはいとも簡単に、自分たちだけが正しいと思い込み、 他者を排除してしまうからです。

コロナ禍のなかで、私たちは互いに分断され、閉じた関係性のなかに留め置かれました。 このことによって社会的な孤立が広がり、孤独の果てに自らの命を絶つ人が激増しました。 特に三十代・四十代の女性の自死が桁違いに増えたことは、分断・孤立の結果だと思われます。

このような、分断されやすい、孤立しやすい状況だからこそ、私たちはこれまで以上に「閉じない・孤立しない」を意識し続けたいのです。 一つのチーム、一つの事業所、一つの分野、一つの法人、それら一つ一つが、いつも新たな出会いを求め、多様な繋がりを持ち続けたいのです。
繋がり続ける限り、そこには新しい風が吹き、新しい人の流れが生まれます。
人の流れは新たな力を生み、そこに新たな知恵とスキルが生まれます。

どすこいのサステナブル事業部では、過疎地での買い物支援(移動スーパー)を準備しています。
またこれと併行して、大阪市内で「子ども食堂」や「地域食堂」といった「居場所作り」に取り組みます。 どすこいの児童発達支援・放課後等デイサービスの事業所を拠点に、障害の有無や程度に関係なく、地域の誰もが集える仕組みを作っていきます。

生まれる前から死んだあとまで、四世代が集い交流できる場を、森にも街にも。
そのためには、どすこいのスタッフだけでは足りません。地域の方々の応援が必要です。そこで生まれる新たな出会いが、さらに多様な繋がりを生んでいきます。
どすこいだけでなく、地域や広くは社会全体が「閉じない・孤立しない・繋がり続ける」場となることを願っています。

どすこいの目標

どすこいが目指すサステナブルな社会

四世代が交流できる
地域コミュニティを創りたい

無農薬有機栽培の
農産物を育てたい

水と命の源である、
森を元気にしたい

持続可能(サステナブル)な社会とは多様性(ダイバーシティ)が受容される社会です。
どすこいは環境(木・土・水)を中心として、教育・福祉・国際交流・芸術・地域コミュニティという領域が互いに補完し合う創造的な社会です。
例えば、こんなイメージです。
A.森のなかの、B.里山のがっこうでは、C.福祉介護サービスの提供はもちろん、障害の有無や程度に関係なく、D.世界中の人たちが集い、E.芸術を楽しみ、F.四世代が交流できるのです。

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